「食べる」ということ
先日、相原師匠とお話する機会をいただいた際、セット野菜の配送料(運送会社)の値上げに伴い、お客様にその旨を説明して値上げしたところ、数名お客様が離れていったということを聞いた。
相原師匠は、食費は自分の体をつくるものだから削ってはいけないものなのに、家計が逼迫すると真っ先に削られるのは食費、それは間違っていると思うと話しておられた。相原師匠が話すからまた身に染みてその通りだと思う、と同時につい最近になってやっと僕も、野菜や食べ物が自分の身体をつくっていると実感できるようになったと思う。それは、「食べる」という行為には、時間や労力やその他諸々、ものすごく大変だとわかったから。
「食べる」という行為には、土づくり、日々の草刈り、育苗、定植、種まき、整枝、収穫、出荷調整、道具のメンテナンス、資材の購入、下処理、調理などなど‥とぜーんぶひっくるめたら、途方もない時間や労力が必要。全部やったら本当にそれ自体が生きることになる。というかそれだけで精一杯。今僕が出荷できている「にんじん」は、真冬の1・2月に種まきして、ビニールトンネルで保温して発芽して、除草して間引きして、それから少しずつ4ヶ月大きくなったもの。そう考えると、やはり大切に食べてもらえたら嬉しいなと思う。
時間と労力がかかっているから、価格は高くて当然とは思わないし、農家さんが魂込めてつくったもの一つひとつにありがたみを感じてほしいなんて言うのもちょっと違うんだけど、人の気持ちがこもった「ものづくり」が丁寧に扱われたり、大切にされる社会であってほしい。
簡単にお金を出せば食べ物が手に入り、何も感じることなく胃袋に流し込む。そうであって欲しくないと思う。そういう僕自身もただ消費しているようなもの結構あったり、気をつけたいですけどね。
つくった人の気持ち、食べる人の気持ち、お互いの思いやりがあってこそ、「食べる」ということが丁寧になるのかもしれないと思いました。
えだまめ、いんげんが絶好調です、とても美味しいので明日のセットに入れようと思います。
2023/6/14 功丞