就農までのあれこれ(1)

 停滞する台風が心配でしたが、ここ藤沢市ではさほど悪い影響もなく、むしろ日照り続きでしたので雨がもらえてよかったと感じています。でもかなりの雨量でしたので、田んぼのようになってしまった畑もありました。これから対策が必要になりそうです。各地でもっと大変な地域はたくさん出ただろうなと思います。近隣の市町村でも床下浸水などの被害を聞いています。農業って本当に厳しく、自然災害の影響をもろに受けてしまうリスクといつも隣り合わせだな、改めて感じています。

さて、今日は就農までのあれこれについて書いてみます。長いので、時間がある時、暇つぶしなどにどうぞです。


 これまで、僕が就農するに至った経緯を書いても誰も興味がないかもしれないと思っていたのですが、非農家出身、有機農業、かなり小規模な家族経営農業をやっている人は、かなり珍しいということが最近わかってきました。それに、自分で言うのもいかがなものかと思いますが、僕の人生かなり行き当たりばったりで、妙な体験をしてきている人間だと思うのです。僕は大体あまり視野が広くないので、農家の方と多く接していると、僕は発信しなくても良いかななどと考えていました。でも思い直して、僕の経験自体が珍しいものであるなら、記録に残して誰かに役立ててもらえるかもしれないと感じるようになりました。
 

 前置きが長くなりましたが、就農した経緯です。シンプルに言えば、自分と家族が生きるために色々と考えてみたら農業をしていたという感じです。

 本格的な就農を決断するには、いくつかの転機がありましたし、相当な時間がかかりました。簡単に順を追っていくと、家庭菜園、結婚、福祉の仕事、育児、退職、実母の死、農業の師や仲間との出会い、研修、新規就農という感じの流れです。

 まず家庭菜園についてですが、開始したのは確か2010年のことになります。当時僕は定職にも就かずに、いわゆるフリーターのような生活をしていました。というのも、DANCEが好きだったので、その世界にどっぷりで海外の大会に出たり、国内のイベントに出たり、仲間とスタジオ経営やインストラクターをしたりと、ダンスに必死で、その稼ぎで足りない分をバイトなどで稼いでいたという生活でした。そんな中、自分が腎臓の病気になったり、父がガンになったり、いろいろ健康や生活を見直す時期が来て、食に興味を持ちました。27,8歳のころです。身近に地産地消で自らの畑で採れた食材を使用して、ほうとう屋さんをやっている方がいて、相談してみたのです。その方が、へっつい庵「ごんばち」というお店の店主の昌坊さん(故)でした。昌坊さんから「自分で畑やってみな」と言われて、言われるがままに昌坊さんについて、作業してみたり、タネをもらって蒔いてみたり。当時の畑の面積は3畝ほどでしたが僕には広すぎて、管理しきれず、迷惑をかけたものですが、初めて小松菜や大根を収穫して食べた時の喜びはとても大きなものでした。妻とはこの頃に出会い、畑作業を共にするようになりました。妻はもともと植物が好きな人で僕より熱心に畑に向き合っていました。僕と出会うまでにも一人で北海道に農業のバイトに行く、ニュージーランドのワーホリでキウイの収穫バイトをするなどしてきた人でした。そういう訳で、僕たちの生活に農業的な要素があることはお互いに喜びでしたし、いつか家の前に畑があって、朝ごはんを収穫してすぐに食べるような生活をしたいと思っていました。

 一方で農業で生活を支える収入を得るということは、かなり厳しいことだと考えて、別の仕事で収入を得る道を探しました。僕たちは川口由一さんの自然農的な考え方や、持続可能な循環型農業のようなものに魅力を感じていましたし、慣行農業のようにバリバリ作る農業が、収入を得る農業だと捉えていたというのもあります。やはり自分たちの遊びのような農業では到底生活が成り立つはずもなく、いつしか僕は福祉の業界で生活費を得て、本当に気が向いた時に畑に行くというスタンスになりました。家庭菜園をやればやるほど、農業で作物・収入を得るって難しいと感じていました。そんな中、東日本大震災がありました。震災後、いろいろな意味で自分たちの生活や食のこと、使っているエネルギーのことを考える時間が増えた気がします。

 結婚して、子供ができた2012年からは、大磯町に暮らし、福祉業界で正職として働くようになりました。

2010年 初めて収穫した大根とかぶ

(2)へつづく

2024/9/3 Kosuke Kumaoka
 

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