就農までのあれこれ(3)

 僕が退職に至るまでの期間について、農業研修を開始するまでについて、少し詳しく書いてみたい。

母を看取った時のことである。

 母が最後の一息をゆっくりと飲み込んで、微笑みながら冷たくなっていったその時に、魂が上の方へ上がっていくのがはっきりとわかった。兄弟3人とも空を見上げて、次男が一言だけ「逝ったな」と言った。よく晴れ渡った空がきれいな、2021年7月中旬の早朝だった。
 僕は母を看取った時に、母がまるで肉体という煩わしい入れ物から解放されたように感じた。闘病生活を間近で見ていたからかもしれない。そして、死は魂と肉体の分離であり、死後の次の世界がしっかりあり、魂はそこへ行くのだとわかった。それは感覚でそうわかったとしか言いようがない。冷たくなった身体はもはや何かの入れ物としか思えなかった。僕は無宗教で、漠然と死んだら無なのだと考えていたけど、魂は死後の世界へ行くのだなと思った。なぜかそこには安心感があった。
 母の死から3年経った。生きている間に僕が農業をやると言ったら、きっと反対したことだろう。

もう一つのお別れ

 近年は生や死について考える機会が増えた。2022年10月に仲が良かった友人が亡くなった。自殺だった。山の中に停めてあった車の中で友人は遺体で発見された。多量の薬を飲んでいた。車のダッシュボードに殴り書きで「めいわくかけてすいません、」と記入されていたという。最後に会ったのが2021年6月、いつものようにフラッとやってきて、セッションした。その時の彼の奏でる音は妙にクリアだったのを覚えている。
 彼は弦楽器奏者で特にギターが好きな音楽家だった。出会ったのは確か2009年とか2010年ごろ、鎌倉の麻心で会って、すぐに打ちとけてセッションしたのを覚えている。ずっと踊りつづける僕を面白がって、ギターで入ってきた。その後何度も改めてセッションした、彼が来る時間は早朝や夜中で突然やってくることもしばしばだった。いつも海や山や滝など自然の中でセッションした。時には海の波の音や蝉の声などとも影響しあったり、滝の水のしぶき、海の水面のきらめきや鳥の羽などを視覚的に利用することもあった。彼とのセッションはいつも純粋な表現になったと今でも思っている。
 僕は彼からいろいろなことを学んだし、子どものように無邪気に音楽を奏で、時にハッと気付かされるような音を出す彼が好きだった。彼は離婚して妻子と会えなくなって(僕らは互いに同じ年頃の子どもを持つ父親だった)からは、住所不定の車中泊で放浪生活のような生活になり、それからは僕のところにくる機会も少なくなった。最期は某過疎地域で地域おこし協力隊のようなことをしていたという。
 僕は彼の死が本当なのかしばらく信じられなかったが、彼の実家で線香をあげてからはもう会えないし、彼の音も聞けないということを実感した。心残りがたくさんあり過ぎて納得がいかなかった。今もフラッと家にきて「クマくんセッションしようよ」と声をかけられる気がしている。

 身近な人の死に直面したことが影響してかわからないが、それから僕は2022年2月に仕事を退職した。体調が悪化したこともあるが、いろいろリセットして考える時間が欲しかった。

心境の変化

 自分の心の療養中に考えたことが2つある。一つ目は人の一生はそもそも自分ではままならないものであること、そしてもう一つは、自分自身を含めて生きるものは皆、移り変わり死んでいくこと。そんなふうに人の一生には避けては通れない普遍的な真理があり、それは遠からず自分にも必ず起こることであると思えた。何か当たり前のことを、自分のこととしてようやく考えられた気がした。
 そのような心境の変化があり、自分の人生を振り返って、過去の生活を見直してみて、もっとリラックスしていい、もっと自分の心が向かう方へ従っていいと思うようになった。家庭菜園を始めた約10年前、その頃も同じように迷っていた。自分が好きでたまらないダンスで生きていくことは苦しかった。ごんばちの昌坊さんに「道に迷ったら、楽しい方を選ぶ」という名言をいただいたことを思い出す。当時は自分の心に従い福祉の世界へ行くことになったのだが‥。
 

 退職してからは、農業のことを調べ出した。10年前とは比べ物にならないほど、有機でしかも小さな農業で頑張っている生産者の情報が得られた。勇気ある先駆者たちがいるんだと思った。それからすぐに久保寺農園の久保寺智さんにコンタクトをとって、会いに行った。お人柄にも畑の雰囲気にも、何より農業を生活の真ん中にした生活自体に魅了されていった。
 妻は「時間があるなら今のうちに農業研修して、農業の道を拓こう、1年なんてすぐに経ってしまうし」とすすめた。僕には不安があったが、楽しいと思う道を進んでみる以外、他に道はなかった。ともかく、仕事を自分のペースでできて、周囲に期待し過ぎたり、過度に期待されたりせずに、日々自分が頑張ってできる範囲の仕事をしたいと思っていた(今考えると随分と漠然とした甘い考えですが‥)また農業のように自然の中でできる仕事には、仕事そのものが生きることに直結している実感を得ることができると思った。
まず動いてみて考えるのが大体の僕のやり方。
 久保寺農園に通いつつ、藤沢市の相原農場さんに研修生として受け入れてもらえるようにお願いした。相原成行さんには、直接会いに行って「もう仕事辞めちゃったの?‥」「農業をやるタイミングが本当に今なのかよく考えてみて」と言われたけれど、「もうここしかお願いできないんです」と頼み込んだ。「(しょうがないやつだな(成行さんの心の声))3ヶ月くらい待ってくれたら受け入れ体制を整えるよ」と言っていただけた。ということで、2022年6月から1年間(週3,5日)正式に農業研修を開始した。

 相原農場では伝統的な農業技術と農家の一年を、仕事を通じて見させていただいた。一般常識とは全く異なる農家の常識や、生きるための生活の知恵と技、何より自然への畏怖や美しさがそこにあった。

 研修期間も半分を過ぎた頃、気づけば、自分の心が向かう方向は、農業を中心にした暮らしをすることだった。それは同時に妻や子どもたちと共に生きる道でもあった。

2024/9/10 Kosuke Kumaoka

写真 約11年前、ごんばちのお父さん(昌坊さん)にいただいたお皿

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